はじめまして、鈴木美乃里です。
プロフィールを書きました。なっがいです(笑)
まずは経歴から。
1987年7月、大阪の北摂に生まれる。
大学卒業後、OLを経て結婚。専業主婦となる。
27歳。出産。慣れない土地の子育てに産後鬱になる。
28歳。「働こう」と1歳の娘をおんぶしチラシ配りのバイトを始める。
29歳。通信制の予備校でCADオペ(図面書く人)の資格を取る。
30歳。建設会社に派遣社員として就職する。
31歳。フリーランスのCADオペになる。時給950円。
32歳。契約解除。仕事0になる。
33歳。電話占いの会社に就職。SNSで発信活動を本格的にはじめる。
34歳。アクセスバーズの講座を日本全国で開始。頭蓋骨ヒーリング創設。
産後からなんだかまとまりもなく、忙しそうですねぇ。。
働き方から生き方までまったく変わったのはここ6,7年ですが、
幼少期からざっと振り返ってみようかと思います。
田舎の小学生、都会で根暗な厨二病オタクになる。
幼少期は大阪の北摂地域で育ちました。
「乗ったらサルがでる」と噂のローカル線が走っているような場所です。
厳しい母親のもとに生まれたこともあって小学生の時は成績優秀。
クラスでも学級委員長をやったり、THE☆優等生をやっていました。
その代わり言われたことしかできなかったので、忘れ物をめちゃくちゃしたり、
はしゃぎすぎて友達のラジコン壊したり、中身はドジで鈍くさい女の子でした。
ド田舎の小学校を卒業し、都会にそびえたつ私立の中高一貫校に進学します。
育ってきた環境の違いから周りと価値観がほとんど合わず、
陰キャの根暗を満喫した6年間でした。
唯一、図書館がじぶんの居場所でかなりの時間を図書館で過ごしました。
ナルニア国物語とかゲド戦記とかファンタジーに没頭していたので、
どちらかというと幻想の世界で過ごしていた時間が多かったのではないかと思います。
中3の頃にBUMPOFCHIKENというバンドを好きになったことをきっかけに、
邦楽ロックの世界にどっぷりハマります。気の合う仲間も見つけてバンドを組んだりもしました。
ミッシェルガンエレファントとか椎名林檎とかくるりとか。
バンドやってる高校生にありがちな「体育館裏で煙草吸ってサボるのがかっこいい」
って本気で思っているタイプだったので、かなりイタい厨二病だったと思います。
でも学校以外でできたバンド仲間がみんないい奴で、そんな私をずっと支えてくれていました。
「仲間がいなかったらマジでヤバかっただろうな」って今でも思います。
バンド活動ばっかりしていたので高校生活はまったく勉強もせず、
もちろん大学は全部落ちて浪人。
でも浪人時代の予備校仲間は個性が際だった面白い人しかいなかったので、
中学高校よりもずっと楽しく通うことができました。
1年間めちゃくちゃ勉強して、大学は京都の立命館大学政策科学部に入学。
頑張って入ったのにろくに学校も行かず、
ほとんどの時間をバイトと恋愛に明け暮れていました。
夕方17時から朝の5時までバイトして、居酒屋で飲んでから学校に行ってました。
めちゃくちゃな4年間でしたが、バイトで培った根性はその後の自分を支えてくれましたし、
大失恋しても次の日の昼まで飲んでくれる仲間が存在する温かさを知れた、貴重な4年間でした。
「持つべきものは笑い飛ばしてくれる気の合う仲間だなぁ」と今でも思います。
精神が崩壊したOL時代。会社から逃げるように結婚。
大学卒業後は生命保険会社で営業の仕事につきます。
いわゆる「生保レディ」と言われる仕事ですね。
私が配属されたのは大学卒業した20代の女性ばかりが配属される、
都会の一等地にオフィスをかまえる大きな部署でした。
当然みんなプライドが高く「成績はとって当たり前!」という世界だったので、
人生で一番精神的にキツイ時期を過ごします。
朝礼では成績が足りないと上司から公開処刑をくらうので、
その後トイレで泣きながら吐く、みたいな光景が毎日でした。
「早くここから逃げなきゃ!!」とずっと退職することばかり考えていました。
そして就職して3年目。
当時お付き合いしていた彼と結婚することになり寿退社が決まります・・!!
結婚が決まったことはとてもよかったのですが、彼の配属先が岐阜県の飛騨地方。
まず賃貸物件すらない土地なので彼は会社の宿舎に泊まり、
私はそこから70キロ離れた岐阜県各務原という場所にひとり暮らしが始まります。
仕事もない。友達もいない。旦那はほぼ帰ってこない。
「ないもの」ばっかり追っていても仕方がないので、
飲食のバイトや公文の採点のバイトをして2年ほど過ごします。
あまりに暇だったので、その時「世界一周の旅ブログ」ばかり読み漁っていました。
見知らぬ日本の土地で読む海外のブログはめちゃくちゃ刺激的でした。
そんな中でもたった6000円で日本を飛び出しギター1本でライブで稼ぎながら旅をする、
金丸文武さんのブログが1番のお気に入りでした。
「わたしもいつか、自分の手で稼げるようになって世界を旅するんだ・・!!」
漠然とですが、本気でそれが夢になっていました。
妊娠。出産。産後鬱。
「住めば都」とはよく言ったもので、岐阜県での生活にも慣れてきます。
慣れてきたころに、自分のおなかに命が宿ったことを知ります。
「バイト辞めて就職でもするか~~」と思っていた頃だったので、
まさにタイミングばっちりで私の元にやってきてくれたのでした。
15時間の陣痛の末に出会えた、可愛いすぎる娘。
分娩台では誰よりも叫び、隣の部屋で待機している妊婦さんのご主人が、
私の叫び声に真っ青になってしまったらしいです(笑)
とはいえ「産むは易し、育てるは難し」と言われる子育て。
「あんなキツイ生保レディだってやれたんだから、
育児なんて楽勝でしょ~~~~~」
って心の底から思っていたんですね。でも現実は全く甘くなかったです。
気がついた頃にはわたしは立派な産後鬱になっていました。
毎日の授乳で意識は朦朧とする。あまり眠れていなくてなんだか怒りっぽい。
免疫はすり減って月1で謎の病にかかる。実家も遠く相談できる友達もいない。
「泣き言いってる場合じゃない!!なんとかして目の前の娘を育てなきゃ!」
悩みぬいた末、すがる思いでNPO法人が主催する産後ケアの団体に所属することになります。
ここでの経験や出会いが、自分の人生すらも大きく変えてくれるきっかけになります。
このNPOが大切にしている価値観のひとつに「”私”を主語として話すこと」というのがありました。
産後の母親は特に主語を「子ども」にしがち。
でも子どもは子どもで、当たり前だけど”私”じゃない。
これまでの私は子どもだけではなく、何かにつけて「上司が」とか「旦那が」とか「周りが」とか、
自分に不都合なことがあるといつも周りのせいにしていました。
私が私として生きることが、まったくできていなかったんです。
それに気づかされたとき「じゃぁ私っていったい何だろう・・・」という、
大切な問いにぶつかりました。
私は何を思って。私は何を感じて。私は何が好きで。
私は何が欲しくて。私は何がやりたくて。私は・・・。
時給890円の最低賃金でいい!!そうだ仕事をしよう!
産後ケアのNPOで友達もでき、子育ても板についてきたころ。
「わたしって今、時給0円の女だよなぁ・・。」
子どもをユラユラと寝かしつけながら、そんなことを漠然と思っていました。
働きたい。働いて、じぶんで稼いだお金で珈琲の一杯でいいから飲みたい。
そんな思いがフツフツと沸いてはくるのですが、
「じゃぁ、どうやって?子どももいるのに。」と、また自分以外の不安が襲ってきます。
するとポストにたまたま入っていたチラシに
「子育てしながらもOK!チラシ配りのバイトしませんか?」という求人広告があったんです。
これだ!と思ってすぐに面接に行きました。人手が足りなかったので即採用。
次の日から、子どもを背負ってチラシを配ります。
でも、わたし毎日これを続けるのかしら。。。背中重いし・・・
一つの不安が解消すればまた次の不安が襲ってきます。
「私は何が欲しいの?私はどうしたいの?私は何になりたいの??」
自問自答を続ける中ででてきた答えが、
「どこでも自由に働けるワタシになりたい!!」
これでした。まずはGoogle検索で「ママ 自由 働き方」と検索をかけます。
その中で「CADオペレーター」という単語が目に留まりました。建築図面を描くお手伝いのお仕事です。
夫が建設業で働いているし質問もできる。これにしよう!!
すぐにCADオペの資格がとれる学校を探します。
この時にラッキーだったのが近所の保育園の一時預かりの枠が1枠だけ余っていたこと。
週2で子どもを保育園に預け、通信制の学校に通いました。
CADオペの仕事はすぐに見つかり、学校を半年通ったのちに派遣の就職先が決まりました。
でも当初の私の目標は、自由に働けるワタシになること。
派遣会社に1年勤めたのちに、フリーのCADオペにすぐに転身します。
3年やった仕事をやめ、本当になりたい自分を探し始める。
フリーランスになって仕事はある。
時給は安いけれど出勤しなくていい。納期さえ守ればやりたいときにやれる。
自分のやったことが物件として形になるから、やりがいもある。
「でも、これって私が本当にやりたいことだっけ?」
そもそも、私の社会人としてのスタートは営業でした。
会社はブラックだったけど営業のお仕事はとっても好きでした。
何より私は人が好きで、コミュニケーションが好きで、関係性を育むことに幸せを感じる人間です。
ぼんやりとそんなことを思っていたCADオペ3年目。
ちょうど契約がきれることなども引き金となり、契約していた会社を全部バッサリ辞めることにしました。
いきなり収入がゼロになり、また振り出しに戻る不安はありました。
でもこのまま自分に嘘をついて生きるのも違う・・!と思ったんです。
お金を得ることと、自分が満たされて生きることは、はっきり違うことを知りました。
とはいえ次に何をするか。
漠然と人と関わる仕事がしたい。あるのはそんな抽象的な理想だけ。
産後に始めたNPOで傾聴の講座を学んでいたので、カウンセラーやってみたいな。
でもカウンセラーって需要あるのかな?病気になってから行くところってイメージ。
そういえば産後鬱になった時、誰に相談したらいいのかわからなくて辛かった。
病院にいっても「薬はいらないよね?」って言われて、
いらないけど、、、じゃぁどうしたらいいの?って逆に悩んだ。
通常よりしんどくて病気未満の人が行くとこってどこだろう・・・占い???
駅前でパプリカを踊り、SNS疲れで病む。
今だから言うけど、実は占いにめちゃくちゃ抵抗がありました。
大学時代の彼氏に「実家専属の占い師から、美乃里と結婚したらダメって言われた。だから別れよう」と、
驚きの理由でフラれたことがあるからです。ホントこの時きつかった・・・
さんざん悩んだ占いの道ですが、
「美乃里はマジで当たる!!」という友達の力強い言葉が唯一のお守りでした。
そして電話占い会社の面接を受けることになります。3社目で見事合格!
電話占いで成功するのは難しいと聞いていたので、SNSの発信にも力を入れだします。
とにかく必死でした。
占って。踊って。発信して。歌って。
何がどうなるかなんて誰にもわからない世界。
自分の切り売りのような日々に悩み、それを空虚に感じることもありました。
あらゆるセミナーや講座にも通いまくりました。数十万は使ったんじゃないかな・・
アクセスバーズに出会ったのもその頃です。
様々な法則方法の中でも、私がバーズを特に「好きだな」と思えた理由は、
「答えや正解を与えない。」という価値観がバーズの根幹にはあったからです。
今まで私はずっと「正解探し」ばかりをやっていました。
仕事の正解。結婚の正解。子育ての正解。人生の正解。
しかし、どれだけ正解を探しても答えは見つかりません。それもそのはず。
私は「親も家族も社会も、皆が納得するような正解」ばかり、ずっと探していたからです。
NPOでも教わった”私”が”私”を主語として語ることの大切さ。
バーズと出会い「外側の正解を求めるのではなく、自分の中に常に問いをたてる」
このことがどれだけ人生に大切かということを再度考えさせられます。
これは、母でもない。妻でもない。何物でもない。
ただの”私として” 生きることへの決意でもありました。
誰も正解は教えてくれません。だから常に自分で答えを探し、決めなければいけない。
もちろん、辛さもあります。
しかしそこには全て自分が選択できる自由がありました。
わたしの今と、これからの未来。
随分と人生を遠回りしてきました。
自分の本音の声を聴けるようになって、今やっとスタートラインに立てたような気がします。
本当の人生はここから始まるんだなぁ、と。
現在はアクセスバーズの講師として、施術を含めた生き方を伝える講座をしています。
みんなが「社会の正解探し」をするのを終えて、本来の自分で生きられる社会を創るために。
そしてゆくゆくは世界を旅しながら、いろんな国の人に自分を表現していきたいと思っています。
そのためには英語ももっと上手に話せるようにならなきゃ・・・(`・ω・´)
長い長い自己紹介、ここまで読んでくださって本当にありがとうございました(*^^*)