昨日、久しぶりにボランティア時代の友人と飲んだ。
彼女たちとは6年の付き合いで、わたしが普段は心の中にしまっている本音を話せる数少ない友人だ。
会った瞬間から「みのりんの最近の◯◯ってことなんだけど」ってむちゃくちゃ鋭い本題をきりだされる。
私たちは場をなんとなく温めるために話す、子どもの話や天気の話を「けづくろいトーク」と呼んでいる。はじめましての人や仕事の同僚、気をつかう間柄だと欠かせない「けづくろいトーク」。猫が相手に警戒心がないことを示すように、互いのけづくろいをすることに由来して誰かが言い出した。
その「けづくろいのような時間」が私たちには1秒もない。3時間ほど話したのだけれど何かを隠すことにエネルギーを使わない時間はとても豊かな時間だった。
「みのりんはさ、それでどうしたいの?ってずっと聞き続けてた。6年前に会ったときからずっと。」
って彼女たちに言われた。
わたしはその人の本当はどうしたいのか、どうなりたいのか、ただただそこに興味がある。そして私もそれを知ってほしいと思っている。
でもそういった建前の裏に隠された本当の気持ちは、安心して話せる関係性や場の空気があってこそ引き出される。だから、ずっとそんな場づくりを行ってきた。
6年前はNPOのボランティアで。
娘はまだ0歳で私に抱っこ紐にかつがれていた。3時間800円で借りれる市の施設の畳の上で、子育てママを十数名集めて完全無給のボランティアだった。
安心安全の場をつくろうとして悩んで苦しんで、ファシリテーターの私は進行が下手すぎて先輩から「そんなんじゃ参加者は何も得られない」と言われて悔しくて泣いた。
ひとりじゃ無理だって悟って、スタッフに「わたし一人じゃできません、みんな助けて」って泣いてお願いして、自分が見落とした言葉を拾ってもらったり、不安そうな人に声かけてもらったり、目の行き届いていない赤ちゃんのサポートをお願いした。
あれから6年。
まったく形は変わってはいるけど、わたしは今も「それであなたは、何がしたいの?何になりたいの?」って聞いてる。
アクセスバーズの講座に魅了されたのもこの「外側の何ものにも委ねず、己がすべて決める」という世界観があったからこそだ。
結局、わたしは人間と人間とが顔をつき合わせて本音の話をしていたいのだ。世界のひとりでも多くと、形は変われども死ぬまでこれをやっているのだと思う。